久しぶりに来たらseesaaの仕様が全然変わっていて不安になった。タダだから仕方ないのかしら。
最近は、自分から「書く」という行為があまりない。無闇に忙しいのもあるし、ツイッターのTLを眺めているだけで疲れてしまう、ということもあるのかも。老眼がひどい(涙)
そのTLで今日、話題になっていて「ふーん」と思ったことがある。同意の「ふーん」ではない。少しく不満と、同じくらいの焦りをこめた、「ふーん」である。
それは、「松田聖子はいかに歌が上手いか」という話題だった。
話者の中心はアラフィフの男性研究者たち。だいたい私と同世代だが、その彼らが言うには、
「聖子ちゃんが出てきたとき、なんて歌が上手い子だろうと思った。が、母の意見は“最近はこんな下手な子でもTVに出られるんだねえ”と」。(大意)
彼らによれば、デビュー曲の聖子ちゃんの低音の確かさ、高音の伸びは素晴らしいらしい。丁寧にリンクも貼ってあったので、まあ当時聴いたはずだが聴いてみるか、違う意見になるかもしれん、と思ってフル視聴した。
でも、やっぱり、当時わからなかったように、私には「松田聖子の歌の上手さ」は現在もよくわからなかった。
そして彼らは続けた。どうも、戦前と戦後では、歌の歌い方が違うらしいのだ。それは確かにそうだろう。それは聴けばわかる。そして、ここからがなるほどと思ったのだが、聴く側の耳もまた、戦前と戦後では違ってしまう。耳は音楽によって作られるからだ。1970年ぐらいまでは、ぎりぎり「戦前の音楽」で育っている人たちが業界の中心だったのだろう。断層は、1980年前後にあったと思われる。
たぶん、彼のお母さんや私は、「戦前耳」なのだ。
私は戦慄した。
むろん私とて、松田聖子が下手だとは思わない。たとえば同時代のきょ*き*んと比べて(笑)音は外していないしそれなりに表現力もあるのだろう。でも私はあのキンキンする高音やしゃくりあげる歌い方に、どうしてもなじめない。まあそれは個人の嗜好の問題なのかもしれないが、どうも彼女(と以降のアイドルたち)の歌声は「薄っぺら」に感じる。薄っぺらという言葉はどうにも価値判断を含んでしまうので使いたくないのだが、なんというか、「物理的に薄く」感じるのだから仕方がない。私には学問としての音楽の素養がないのでその「薄っぺらさの正体」はよくわからないのだが、じゃあ逆に誰なら「厚い」のかと問われたら、最初に思い浮かぶのがちあきなおみなのだが。
・・・ちょっと比較の対象が上手すぎるな。
夫によればホーミーとか倍音とかの勉強をすれば少しはその正体がわかるんじゃないかというのだが、どなたか、思い当たるフシはありませんか。そして私を楽にしてくださいませんか。
そういえば当時は聖子プロジェクトとも呼ばれた豪華ライターを並べたことも「わりと音楽好き」な人たちの間では話題で、「一応細野が書いてるから聖子ちゃん聴いてる」的な人もいたが、私はその楽曲のよさもよくわかんなかったんだよなあ。細野なのに。
私は自分勝手なようでいて、うちの娘ほどには「わが道を行く」タイプではない(うちの娘は、しんそこ変わり者だということが、ここ数年でよくわかった)。へそ曲がりではあるが、大勢の意見と自分の感じ方が違うことに不安を感じるタイプである。「わかったうえで」バカにしたいのだ。性格悪いでしょう。「わかんない」と怖いのだ。
同じように「わかんなかった」例が、コムロである。こないだTVで1990年代にはどんなPOPが聴かれていたかをつらつら眺めていて、いかに自分がコムロの曲に寸分も興味を持てないかよくわかった。ものすごい空白の10年間なのである。
なんていうかなあ、あの、音楽ナメてる感?
お前らこういうの好きだろ、美味しいだろ、ってちょっと見た目のいい食材をもってきて、テキトーに作りました感。
私はグルメではないが「む…これは冷凍食品ではないか!女将を呼べ!」って言いたくなるんですよ。ちなみにグルメ漫画は孤独のグルメ以外嫌いです。同じ原作者でもズボラ飯とかチョー嫌い。
彼の子飼いである女性歌手たちのキンキンするカラオケ歌唱も耐え難い。
そして私は、その源流に、聖子ちゃんを見るのである。
私がコムロに対して抱いた感情って、もしかして、現在、中田某に対して抱いている人もいるかもしれないね。私は中田某それほど嫌じゃないけど、でも嫌がる人の気持ちはわかる。
と、いうわけで、今回のお題は「わたしのきらいなもの」でした?
大台に向けてますます偏屈になるおばはん、一体誰が最後まで読んでくれるのか見物です!!なんだか泣きたいです!更年期治療中(実話)
2012年05月02日
2012年01月31日
アイドルいまむかし
あの、女の子がいっぱいいるグループの、
メンバーが、クビになった件、というより、
それを伝えるニュースのコメント欄に関して、
ちょっと考えさせられるものがあった。
「CD買ったりして、応援してるんだから、
ルールは守ってほしい」。
一見、正論に見える。けれども、なにか釈然としない。
しばらく自分の中で咀嚼していて、ふとその理由がわかった。
わたしなりに翻訳すると、それは、
「さんざん金つぎ込んでるんだから、
商品としての価値を守れ」
というふうに、聞こえるのであった。
それは、応援ではなく、単なる契約だ。
これは余談だが、
同じことが男女入れ替わっても起こっているのだろうか?
と思ったので、女子のジャ*オタについても考えてみた。
しかしあんまりよく知らないので、仕方なく、
自分の小中学校時代の記憶を手繰り寄せてみた(大体ジュラ紀ぐらい)。
わたしは全然アイドルのことを知らなかったが、
同世代の女子は、たいてい、ヒデキかヒロミかゴローのファンだった。
アイドルに彼女が出来るなんてことは、とんでもないことだった。
(だからみなさん、結婚が遅かったでしょう?)
彼女らの言い分というのは、
「夢を売る仕事なのだから、自覚を持ってほしい」
ということだったように思う。
なんか、むちゃくちゃ精神論だった。学級委員的だった。
まあ、どちらにしろ、本音のところは
「ガッカリするから彼女とか作んないでほしい」
ということなのだと思うが、人間というものは、
理論武装(=言い訳)しないと生きていけないものだからね。
もちろんわたしだって。
それにしても、これが男女差なのか、時代的なものなのかは、
もうちょっと考えてみてもいいかもしれない。
さて、ともかく、この「金出してるんだから」と、
むやみやたらに対価を求める気持ちは、
ひどく世の中に蔓延っていると思う。
たとえば現代の大学生は、休講を喜ばない。
「せっかく授業料を払ったのに」とむしろ憤慨するらしい。
だから授業もさぼらない。きちんと出席して、寝ているそうだ。
金払ってるんだから何言ったっていいだろう。
と思っている人たちが、駅に、店頭に、学校にまで、あふれている。
大学教授が、すでに全然尊敬の対象ではないように(まあこれは仕方ない)、
アイドルもまた、崇拝の対象ではなくなってしまったのだろうか。
そう考えたとき、ふと、不毛の時代に残された、
ガラパゴスのような聖地に思い至った。
それは、新大久保だ。
いくつかのニュースやドキュメンタリーで目にしたのだが、
韓流好きのおばさま(といっても同世代の人もいるだろう…)の中には、
信じられないぐらいの金をつぎ込んでいる人がいる。
しかも、ドラマのロケ地に行ってうまいもん食べる、
とかならまだわかるのだが(ああ焼肉食べたい)、
新大久保の、アイドルの登竜門のカフェとかで、
「お気に入りの子」に貢ぎ、なおかつ
「何も求めない」。←ここ大事
その人の私生活を知る気もない。
何の対価も求めない。
ただ、ひたすらに、愛する。
ほんとうに、そんな人がいるのだ。
(まあ、孫みたいな気持ちなのかもしれんが…。)
わたしは、韓流に、まったく何の興味もないが、
韓流好きの人々のごく一部には、切ない共感を覚えるときがある。
いや、年のせいじゃなくて!
あと、知らないけど、宝塚とかもそうなのかしらね?
知らないけど。
全然関係ないけどいまハマってる曲↓
メンバーが、クビになった件、というより、
それを伝えるニュースのコメント欄に関して、
ちょっと考えさせられるものがあった。
「CD買ったりして、応援してるんだから、
ルールは守ってほしい」。
一見、正論に見える。けれども、なにか釈然としない。
しばらく自分の中で咀嚼していて、ふとその理由がわかった。
わたしなりに翻訳すると、それは、
「さんざん金つぎ込んでるんだから、
商品としての価値を守れ」
というふうに、聞こえるのであった。
それは、応援ではなく、単なる契約だ。
これは余談だが、
同じことが男女入れ替わっても起こっているのだろうか?
と思ったので、女子のジャ*オタについても考えてみた。
しかしあんまりよく知らないので、仕方なく、
自分の小中学校時代の記憶を手繰り寄せてみた(大体ジュラ紀ぐらい)。
わたしは全然アイドルのことを知らなかったが、
同世代の女子は、たいてい、ヒデキかヒロミかゴローのファンだった。
アイドルに彼女が出来るなんてことは、とんでもないことだった。
(だからみなさん、結婚が遅かったでしょう?)
彼女らの言い分というのは、
「夢を売る仕事なのだから、自覚を持ってほしい」
ということだったように思う。
なんか、むちゃくちゃ精神論だった。学級委員的だった。
まあ、どちらにしろ、本音のところは
「ガッカリするから彼女とか作んないでほしい」
ということなのだと思うが、人間というものは、
理論武装(=言い訳)しないと生きていけないものだからね。
もちろんわたしだって。
それにしても、これが男女差なのか、時代的なものなのかは、
もうちょっと考えてみてもいいかもしれない。
さて、ともかく、この「金出してるんだから」と、
むやみやたらに対価を求める気持ちは、
ひどく世の中に蔓延っていると思う。
たとえば現代の大学生は、休講を喜ばない。
「せっかく授業料を払ったのに」とむしろ憤慨するらしい。
だから授業もさぼらない。きちんと出席して、寝ているそうだ。
金払ってるんだから何言ったっていいだろう。
と思っている人たちが、駅に、店頭に、学校にまで、あふれている。
大学教授が、すでに全然尊敬の対象ではないように(まあこれは仕方ない)、
アイドルもまた、崇拝の対象ではなくなってしまったのだろうか。
そう考えたとき、ふと、不毛の時代に残された、
ガラパゴスのような聖地に思い至った。
それは、新大久保だ。
いくつかのニュースやドキュメンタリーで目にしたのだが、
韓流好きのおばさま(といっても同世代の人もいるだろう…)の中には、
信じられないぐらいの金をつぎ込んでいる人がいる。
しかも、ドラマのロケ地に行ってうまいもん食べる、
とかならまだわかるのだが(ああ焼肉食べたい)、
新大久保の、アイドルの登竜門のカフェとかで、
「お気に入りの子」に貢ぎ、なおかつ
「何も求めない」。←ここ大事
その人の私生活を知る気もない。
何の対価も求めない。
ただ、ひたすらに、愛する。
ほんとうに、そんな人がいるのだ。
(まあ、孫みたいな気持ちなのかもしれんが…。)
わたしは、韓流に、まったく何の興味もないが、
韓流好きの人々のごく一部には、切ない共感を覚えるときがある。
いや、年のせいじゃなくて!
あと、知らないけど、宝塚とかもそうなのかしらね?
知らないけど。
全然関係ないけどいまハマってる曲↓
2011年11月25日
何だ?この,ユーウツは!!
2011年11月11日付でムーンライダーズが活動を休止したそうだ。
1986年にもいったん活動休止宣言があったが、今度は無期限。
寂しい。
それがきっかけになったというわけではないのだが、
このところ、この曲ばかりを聴いている。
http://www.amazon.co.jp/DON%E2%80%99T-TRUST-OVER-THIRTY-%E7%B4%99/dp/B000083OAQ/ref=cm_cr_pr_product_top
この曲が収録されているアルバム『DON'T TRUST OVER THIRTY』(1986)には、
発売当時、それほど思い入れはなかった気がする。
というのも、私の場合、曲自体というより、
その音楽に出会った“時期”に、音楽の感じ方がものすごく左右されてしまうからだ。
そういう意味では、バリバリNWに目覚めた頃の『MODERN MUSIC』(1979)とか、
大学で甘辛く青春していた時代の『青空百景』や
『マニア・マニエラ』(ともに1982)なんかが、
どうしても印象としては強烈に残ってしまう。
実際、ライダーズの曲を3曲だけ宇宙に持って行ってもいいぞ
(無人島より孤独なシチュエーションを考えたらそうなった)
と言われたら、死ぬほど悩んだ末に、このアルバムより昔の
『二十世紀鋼鉄の男』と『くれない埠頭』と『BLDG』を選ぶと思う。
このアルバムの場合は、バブル前夜で仕事も覚え始めのイケイケの時代なので、
ちょっとこのアルバムのトーンと気持ちのソリが合わなかったのかもしれない。
いや、むしろ、時代がそんなだったからこその「休止宣言」なのかしら。
そしていま、この曲と、自分の精神状態が
あまりにシンクロしてしまうので、ちょっと辛い。
そう、この曲は辛い。作った本人が、鬱を発症した時期で
あんまり精神状態がひどくて製作の詳細を覚えていない、
いまでも鬱のスイッチが入ってしまうので歌いたくない、というくらいだ。
そして、この曲は、その辛さによって、聴く人を救ってくれる。
聴き込んで、気持ちが共鳴すればするほど、
上質なナイフで“なめされて”いくような、不思議な感覚に出会う。
ダミアの「暗い日曜日」とはちょっと違うようだ。
ああ、いま思ったんだけど、この曲って、ビートルズのCarry That Weightに似てないかな。
アルバム自体もアビーロードっぽい気がする。
思えば、長い間、夢を見ていたのだ、と思う。
普通は夢から覚めた現実のほうが「正しい」はずなのに、
私の精神はその「正しさ」を受け入れるほどには鍛えられていなかった。
だから、
♪一人で立てるかい そんな夢から覚めて♪
のところで、いつも泣きそうになる。
だけど、この曲を聞いている間だけはこらえられる。
だって鈴木慶一が先に泣いてくれるから。
二人で、あるいはみんなで、歩いていたはずなのに、本当は一人だった。
そう気づいたときに、音楽があってよかった。
1986年にもいったん活動休止宣言があったが、今度は無期限。
寂しい。
それがきっかけになったというわけではないのだが、
このところ、この曲ばかりを聴いている。
http://www.amazon.co.jp/DON%E2%80%99T-TRUST-OVER-THIRTY-%E7%B4%99/dp/B000083OAQ/ref=cm_cr_pr_product_top
この曲が収録されているアルバム『DON'T TRUST OVER THIRTY』(1986)には、
発売当時、それほど思い入れはなかった気がする。
というのも、私の場合、曲自体というより、
その音楽に出会った“時期”に、音楽の感じ方がものすごく左右されてしまうからだ。
そういう意味では、バリバリNWに目覚めた頃の『MODERN MUSIC』(1979)とか、
大学で甘辛く青春していた時代の『青空百景』や
『マニア・マニエラ』(ともに1982)なんかが、
どうしても印象としては強烈に残ってしまう。
実際、ライダーズの曲を3曲だけ宇宙に持って行ってもいいぞ
(無人島より孤独なシチュエーションを考えたらそうなった)
と言われたら、死ぬほど悩んだ末に、このアルバムより昔の
『二十世紀鋼鉄の男』と『くれない埠頭』と『BLDG』を選ぶと思う。
このアルバムの場合は、バブル前夜で仕事も覚え始めのイケイケの時代なので、
ちょっとこのアルバムのトーンと気持ちのソリが合わなかったのかもしれない。
いや、むしろ、時代がそんなだったからこその「休止宣言」なのかしら。
そしていま、この曲と、自分の精神状態が
あまりにシンクロしてしまうので、ちょっと辛い。
そう、この曲は辛い。作った本人が、鬱を発症した時期で
あんまり精神状態がひどくて製作の詳細を覚えていない、
いまでも鬱のスイッチが入ってしまうので歌いたくない、というくらいだ。
そして、この曲は、その辛さによって、聴く人を救ってくれる。
聴き込んで、気持ちが共鳴すればするほど、
上質なナイフで“なめされて”いくような、不思議な感覚に出会う。
ダミアの「暗い日曜日」とはちょっと違うようだ。
ああ、いま思ったんだけど、この曲って、ビートルズのCarry That Weightに似てないかな。
アルバム自体もアビーロードっぽい気がする。
思えば、長い間、夢を見ていたのだ、と思う。
普通は夢から覚めた現実のほうが「正しい」はずなのに、
私の精神はその「正しさ」を受け入れるほどには鍛えられていなかった。
だから、
♪一人で立てるかい そんな夢から覚めて♪
のところで、いつも泣きそうになる。
だけど、この曲を聞いている間だけはこらえられる。
だって鈴木慶一が先に泣いてくれるから。
二人で、あるいはみんなで、歩いていたはずなのに、本当は一人だった。
そう気づいたときに、音楽があってよかった。
2011年10月21日
好きこそものの・2
今月はじめからパートに出てます。
楽しい。もしかして天職かも。
仕事が楽しいなんて生まれて初めてだ。
「職業上知りえた事柄を公開してはいけない」約束なので(?)
はっきり言えませんが、地図見るの、たのしー。
私は地図オタクなのだ。読めないけど、好きなのだ。
一昨日だか、娘が、
「好きなことの時間を削ってまで受験勉強をやる意味がわからない」
と言っていた。
うんうん、大変だよね。「好き」という情熱を維持しながら、
それを抑圧して一見関係ない目的地まで走らなきゃならないんだから。
近くも遠くも両方見るって、難しいよね。
中国で2歳の女の子がひき逃げされた映像が消化できなくて、
まだ、食道の下あたりに重くぶら下がっている。
もう言いたいことが多すぎて、1センテンス打つたびに、ため息が出るような状態だけど、
とにかく、あの国は、「司法というものが信頼できる国」にしないと、
いくら経済成長しようとも、この先、大きな陥穽が待ち受けているような気がする。
何千年も前からあの国の人々がやたら「法」を恐れたり、密告したりするのは、
結局、「法」というものを(それが正しく運用されることを)
根幹では信用していないからでしょう?
それではだめだ。悲劇はこれからも起こるし、世界は彼らを仲間とは認めない。
とにかくあの子が助かってほしい。
できることなら、幸せになってほしい。
ここのところ気が滅入るニュースが多いです。
カダフィの映像も見たくなかったな。
彼の功罪を私は云々できないけれども、中国のあの動画と立て続けに見て、
ふさがりかけてた傷口にまた触れられたような、ひりひりする感覚。
被災された方とは比較にならないけど、やっぱり今年は心が参っているのだと思う。
あと、米国で猛獣を解き放って自殺した男のニュースにもうんざりだ。
射殺された動物たちが、哀れで、かける言葉もない。
人間て、悪いなあ。素朴に、そう思ってしまう。
楽しい。もしかして天職かも。
仕事が楽しいなんて生まれて初めてだ。
「職業上知りえた事柄を公開してはいけない」約束なので(?)
はっきり言えませんが、地図見るの、たのしー。
私は地図オタクなのだ。読めないけど、好きなのだ。
一昨日だか、娘が、
「好きなことの時間を削ってまで受験勉強をやる意味がわからない」
と言っていた。
うんうん、大変だよね。「好き」という情熱を維持しながら、
それを抑圧して一見関係ない目的地まで走らなきゃならないんだから。
近くも遠くも両方見るって、難しいよね。
中国で2歳の女の子がひき逃げされた映像が消化できなくて、
まだ、食道の下あたりに重くぶら下がっている。
もう言いたいことが多すぎて、1センテンス打つたびに、ため息が出るような状態だけど、
とにかく、あの国は、「司法というものが信頼できる国」にしないと、
いくら経済成長しようとも、この先、大きな陥穽が待ち受けているような気がする。
何千年も前からあの国の人々がやたら「法」を恐れたり、密告したりするのは、
結局、「法」というものを(それが正しく運用されることを)
根幹では信用していないからでしょう?
それではだめだ。悲劇はこれからも起こるし、世界は彼らを仲間とは認めない。
とにかくあの子が助かってほしい。
できることなら、幸せになってほしい。
ここのところ気が滅入るニュースが多いです。
カダフィの映像も見たくなかったな。
彼の功罪を私は云々できないけれども、中国のあの動画と立て続けに見て、
ふさがりかけてた傷口にまた触れられたような、ひりひりする感覚。
被災された方とは比較にならないけど、やっぱり今年は心が参っているのだと思う。
あと、米国で猛獣を解き放って自殺した男のニュースにもうんざりだ。
射殺された動物たちが、哀れで、かける言葉もない。
人間て、悪いなあ。素朴に、そう思ってしまう。
2011年09月19日
好きこそものの
ふと気づくと、私はなんにもできない人だった。
広告の仕事に戻るのが嫌で、主婦パートの仕事を探している。
娘に将来金がかかりそうなことが見えてきたので、備えるためだ。
そして就職活動をしてみると、私って、何の売りもないんである。
資格はクルマの免許だけ。学歴は中退。キャリアといえばコピーライターとしてのそれだけ。データ入力の仕事ものべで半年ぐらいやったけど、あまり意味はなさそう。
つまり、事務の経験もない、接客ができるわけでもない、力仕事も頼りない、資格も持ってない49歳。
私が経営者でも、こういう人にどんな仕事なら任せられるのか悩むところだ。
というわけで、がつがつ履歴書を書く日々だ。それにしても夫の大学の生協からも振られた日には凹んだぜ。(夫の職業にはもちろん触れてない)
どの時点まで戻れば、なにかできる人になれたんだろう、と考えてみる。
まあ、もちろん、大学をちゃんと出るのが一番の早道だったんだろうなあ。私がマスコミを目指したのは、「そこで何かがしたいから」ではなくて、大学中退でも取りあってくれる業界が他にあんまり思いつかなかったからだ。うちの大学を出たらどこへ行くのかいま試しに調べてみたら、ホンダ、ANA、外務省、トヨタがトップ4だった。眩しい。
しかし、たとえ「でもしか」で入った業界であっても、志さえあれば「なにものか」には成れたのではないか。いま現在、私がなにものにも成っていないのは、その努力を怠ったからではないのか。「ここは私の本当の居場所じゃない」とかいつも逃げ道を作っていなかったか?
そう思ったのは、娘の進路について話し合うことが増えたからだろう。
娘は、「本当にそれでいいの?」と念を押したくなるぐらい志望高校を即決して、しかもその後1年以上まったく目標がぶれていない。その高校に入りたい理由もはっきりしている。絵が描きたいからだ。
絵だけは、どんなに忙しくても、どんなに追い詰められても、毎日描いている。
翻って、中高生の私には、「なりたいもの」なんてなにもなかった。
そのことには目をつぶって、「なんにでもなれるのに、どうしていま限定する必要があるの?」ぐらいに思っていた。
可能性の意味をを履き違えていた。
そうして「行きたい大学」ではなく「行ける大学」を選んだ。「やりたいこと」がないので「つぶしのきく」学部を選んだ。
そしてついに興味が持てずに退学した。
大学を留年してぶらぶらしながら音楽の同人誌などを作っていた頃に、ある出版社のベテラン女性編集者(仮にAさんとする)になぜかえらく評価されて、「どうして本気で文章を書かないのか?」とよく苦言を呈された。
その頃の私は文章を書いて生きていくつもりなど毛頭なく(留年しているくせにまともに就職するつもりでいた)、さらに自分の文章など小器用なだけで十人並みであると思っていた(もちろんいまでもそう思っている)ので、Aさんの熱心さを面映く、やがてやや重荷に思うようになっていった。
だって私には、本当のことを言えば、「書きたいこと」なんてないのだ。自分の趣味について仲間とナアナアで語れればそれで充分。だって、だって、本気でやるのは…怖いじゃないか。
本当に自分のへたれ加減には呆れる。さらに現在では汚い大人になったので、せめて「書くことがない」のなら、Aさんに相談する手もありだったなあと思う。プロの編集なんて書かせるのが仕事なのだから。
文章でも音楽でも絵でも、そうゆうものは「降りてくる」のを待つのが正しいあり方のように思われているが、実際は、「とにかく書く」というような、原始的で、愚直な方法が、王道だったりする…と、最近では思う。
Aさんとは数年にわたり年賀状などやり取りしていたが、ある年、
「珠も磨かなければ光りませんよ」
と書かれたものを最後に、音信不通になった。私が引っ越し先の住所を知らせなかったからか、Aさんに愛想をつかされたからかは、わからない。というか覚えていない。
やりたいことがやれない時期は夢の醸成期だ、なぜなら大人になると手軽な娯楽にごまかされて本当にやりたいことが見えなくなってしまうから、と、確かちびまる子ちゃんの人の漫画で読んだような気がする。
そのときは、まるで自分のことを揶揄されているようで、
「ケッ、なにが夢だよ」
とか思ったものだが(すいません)、いま娘を見ていると、ああこれがそれか、と思い当たる。
というわけで、これからは、勉強やれ〜いとかアッコちゃんとこの校長先生みたいなことはなるべく言わず(40オーバーでないとわからないネタ)、せっせとパートの口を探そうと思っている。
広告の仕事に戻るのが嫌で、主婦パートの仕事を探している。
娘に将来金がかかりそうなことが見えてきたので、備えるためだ。
そして就職活動をしてみると、私って、何の売りもないんである。
資格はクルマの免許だけ。学歴は中退。キャリアといえばコピーライターとしてのそれだけ。データ入力の仕事ものべで半年ぐらいやったけど、あまり意味はなさそう。
つまり、事務の経験もない、接客ができるわけでもない、力仕事も頼りない、資格も持ってない49歳。
私が経営者でも、こういう人にどんな仕事なら任せられるのか悩むところだ。
というわけで、がつがつ履歴書を書く日々だ。それにしても夫の大学の生協からも振られた日には凹んだぜ。(夫の職業にはもちろん触れてない)
どの時点まで戻れば、なにかできる人になれたんだろう、と考えてみる。
まあ、もちろん、大学をちゃんと出るのが一番の早道だったんだろうなあ。私がマスコミを目指したのは、「そこで何かがしたいから」ではなくて、大学中退でも取りあってくれる業界が他にあんまり思いつかなかったからだ。うちの大学を出たらどこへ行くのかいま試しに調べてみたら、ホンダ、ANA、外務省、トヨタがトップ4だった。眩しい。
しかし、たとえ「でもしか」で入った業界であっても、志さえあれば「なにものか」には成れたのではないか。いま現在、私がなにものにも成っていないのは、その努力を怠ったからではないのか。「ここは私の本当の居場所じゃない」とかいつも逃げ道を作っていなかったか?
そう思ったのは、娘の進路について話し合うことが増えたからだろう。
娘は、「本当にそれでいいの?」と念を押したくなるぐらい志望高校を即決して、しかもその後1年以上まったく目標がぶれていない。その高校に入りたい理由もはっきりしている。絵が描きたいからだ。
絵だけは、どんなに忙しくても、どんなに追い詰められても、毎日描いている。
翻って、中高生の私には、「なりたいもの」なんてなにもなかった。
そのことには目をつぶって、「なんにでもなれるのに、どうしていま限定する必要があるの?」ぐらいに思っていた。
可能性の意味をを履き違えていた。
そうして「行きたい大学」ではなく「行ける大学」を選んだ。「やりたいこと」がないので「つぶしのきく」学部を選んだ。
そしてついに興味が持てずに退学した。
大学を留年してぶらぶらしながら音楽の同人誌などを作っていた頃に、ある出版社のベテラン女性編集者(仮にAさんとする)になぜかえらく評価されて、「どうして本気で文章を書かないのか?」とよく苦言を呈された。
その頃の私は文章を書いて生きていくつもりなど毛頭なく(留年しているくせにまともに就職するつもりでいた)、さらに自分の文章など小器用なだけで十人並みであると思っていた(もちろんいまでもそう思っている)ので、Aさんの熱心さを面映く、やがてやや重荷に思うようになっていった。
だって私には、本当のことを言えば、「書きたいこと」なんてないのだ。自分の趣味について仲間とナアナアで語れればそれで充分。だって、だって、本気でやるのは…怖いじゃないか。
本当に自分のへたれ加減には呆れる。さらに現在では汚い大人になったので、せめて「書くことがない」のなら、Aさんに相談する手もありだったなあと思う。プロの編集なんて書かせるのが仕事なのだから。
文章でも音楽でも絵でも、そうゆうものは「降りてくる」のを待つのが正しいあり方のように思われているが、実際は、「とにかく書く」というような、原始的で、愚直な方法が、王道だったりする…と、最近では思う。
Aさんとは数年にわたり年賀状などやり取りしていたが、ある年、
「珠も磨かなければ光りませんよ」
と書かれたものを最後に、音信不通になった。私が引っ越し先の住所を知らせなかったからか、Aさんに愛想をつかされたからかは、わからない。というか覚えていない。
やりたいことがやれない時期は夢の醸成期だ、なぜなら大人になると手軽な娯楽にごまかされて本当にやりたいことが見えなくなってしまうから、と、確かちびまる子ちゃんの人の漫画で読んだような気がする。
そのときは、まるで自分のことを揶揄されているようで、
「ケッ、なにが夢だよ」
とか思ったものだが(すいません)、いま娘を見ていると、ああこれがそれか、と思い当たる。
というわけで、これからは、勉強やれ〜いとかアッコちゃんとこの校長先生みたいなことはなるべく言わず(40オーバーでないとわからないネタ)、せっせとパートの口を探そうと思っている。
2011年09月09日
辛気臭い話
ずいぶん間が空きました。書く時間がなかったような気もするし、書くべきことがなかったような気もする。
ただ、この年は、いろんな人が亡くなった年だなあということは忘れないと思います。辛気臭くて申し訳ないんだけど、震災はもちろん、身近なことからいろいろ考えた。たどりついたのは、人間はいつ死んでもおかしくないし、死ななきゃいけない理由があって死ぬわけでもないんだ、という、文字にしてしまうとあっけない答。
中高年と呼ばれる年齢になるまでそれに気づかなかった私は幸福な人間だと思います。
先月のある日、ある凄惨な事故が報道されました。他人事とはいえあまりにむごく、「こういう死に方ってどうなの…」と、夫とひとしきり話題にしたことを覚えています。私は想像するだけで怯えて尻込みしてしまったけど、「案外瞬間的なのではないか、苦しまないのではないか」という夫の言葉に、何か拍子抜けするような、非難がましいような、それでいて救われるような複雑な感情を抱いたものでした。
そして、それが自分の従兄弟だったことを知ったのは10日も後のことでした。
慌ててネットでニュースを検索すると、当時私が読んだ時点では書かれていなかった「作業員」の名前と年齢と住所が載っていました。確かに従兄弟のようでした。
その瞬間もいまも、どこか実感が湧かないのは、従兄弟の家と長く絶縁状態だったからだと思います。うちの娘などは、生まれてこのかた伯母一家に会ったことがなく、その存在も概念でしか知らない、まあUMAのようなものととらえていたと思います。
昔はそうではありませんでした。私が小さい頃はその家に預けられたことがありましたし、20年ほど前までは一緒に旅行に行ったり、従兄弟が私の実家に数ヶ月居候したりということもあったのです。
伯母(母の姉)がおかしくなったのは、伯父が亡くなってからでした。まあそれまでも奇行のないでもない人ではあったのですが、攻撃的ではなかった。それが、庶民にしては高額な伯父の遺産を手にしてから、「親戚中が借金しに来る」という妄想に取り付かれてしまったようで、あることないこと近所じゅうに言いふらした挙句(母方の親戚は、私の実家を除いてすべて同じ町に住んでいるのです)、向こうから、すべての親戚に「絶縁」を言い渡してきました。
母を含めきょうだいたちは、半ば呆れながらも「触らぬ神に祟りなし」でその状態を受け入れてきました。ただ、両親(私にとっては祖父母)が亡くなったときだけはさすがに連絡したようです。ところが伯母の返事は「勝手にすれば」。事ここに至って、ついに母たちは、自分たちが姉をひとり失ったのだと判断せざるを得ませんでした(この話には後日談があり、伯母は近所じゅうに「親が死んだのに報せももらえなかった」と泣いて歩いたそうです)。
身内の恥ですが、面白いのでつい書いてしまいました。私は、伯母に対しても、伯母に疑いを抱かない子供たち(つまり従兄弟たち)に対しても、シンプルに「馬鹿だなあ」という以上の感慨をもてませんでした。呆れるし、情けないし、確かにあんまり付き合わないほうが身のためだと思いました。だけどその心情の底に、憎しみのようなものは湧かず、いやむしろ何か、諧謔に満ちた愛情のようなものを感じていました。それは、私は母や叔父や叔母たちと違って伯母の「狂言」の被害を直接受けていないという理由もありますし、伯母たちが、本当に、「悪人ではなく途方もなく頭が悪いだけなのだ」と信じたいからなのかもしれません。
従兄弟が亡くなったという話も、実は母の妹が「風の便りで」聞いてきたものでした。伯母から直接連絡があったわけではありません。そんなふうに、物理的にも心理的にも離れている時間が長かったせいなのか、私が人並みはずれて冷血人間のためか、たぶん両方だと思いますが、とくに涙は出ないのです。さすがに知って数日は、呆然とする時間もありましたが、眠れないということもないし食事が喉を通らないということもありません。従兄弟とはいえ血のつながりのある人間が壮絶な死に方をしたのに、この始末である自分がなんだか不思議な気がします。
絶縁状態になる少し前、従兄弟が、クルマの免許を取るために私の実家にいた頃のことです(うちの実家が地元の教習所の社長と仲良しだったのでそういうことになったのですが、まあこれも結局伯母に色々誤解されて絶縁の一因になったのでした)。
その頃飼っていたチビ(巨大なオスの雑種犬)の具合が悪くなり、動物病院に行ったところ、「フィラリアで余命1ヶ月」と診断されました。私は、その宣告と同じくらい、私と一緒に診察台でチビを押さえていた従兄弟が、辺りも憚らず大粒の涙を流し始めたことに狼狽してしまいました。ハタチをゆうに過ぎた図体のでかい男が、嗚咽も漏らすことなく、まるで声を失った人魚姫のように、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしているのです。
事故の瞬間、従兄弟は、先に落ちたもう一人を助けようとして一緒に落ちたのだ、と関係者から聞きました。
真珠の涙を思い出しました。
ただ、この年は、いろんな人が亡くなった年だなあということは忘れないと思います。辛気臭くて申し訳ないんだけど、震災はもちろん、身近なことからいろいろ考えた。たどりついたのは、人間はいつ死んでもおかしくないし、死ななきゃいけない理由があって死ぬわけでもないんだ、という、文字にしてしまうとあっけない答。
中高年と呼ばれる年齢になるまでそれに気づかなかった私は幸福な人間だと思います。
先月のある日、ある凄惨な事故が報道されました。他人事とはいえあまりにむごく、「こういう死に方ってどうなの…」と、夫とひとしきり話題にしたことを覚えています。私は想像するだけで怯えて尻込みしてしまったけど、「案外瞬間的なのではないか、苦しまないのではないか」という夫の言葉に、何か拍子抜けするような、非難がましいような、それでいて救われるような複雑な感情を抱いたものでした。
そして、それが自分の従兄弟だったことを知ったのは10日も後のことでした。
慌ててネットでニュースを検索すると、当時私が読んだ時点では書かれていなかった「作業員」の名前と年齢と住所が載っていました。確かに従兄弟のようでした。
その瞬間もいまも、どこか実感が湧かないのは、従兄弟の家と長く絶縁状態だったからだと思います。うちの娘などは、生まれてこのかた伯母一家に会ったことがなく、その存在も概念でしか知らない、まあUMAのようなものととらえていたと思います。
昔はそうではありませんでした。私が小さい頃はその家に預けられたことがありましたし、20年ほど前までは一緒に旅行に行ったり、従兄弟が私の実家に数ヶ月居候したりということもあったのです。
伯母(母の姉)がおかしくなったのは、伯父が亡くなってからでした。まあそれまでも奇行のないでもない人ではあったのですが、攻撃的ではなかった。それが、庶民にしては高額な伯父の遺産を手にしてから、「親戚中が借金しに来る」という妄想に取り付かれてしまったようで、あることないこと近所じゅうに言いふらした挙句(母方の親戚は、私の実家を除いてすべて同じ町に住んでいるのです)、向こうから、すべての親戚に「絶縁」を言い渡してきました。
母を含めきょうだいたちは、半ば呆れながらも「触らぬ神に祟りなし」でその状態を受け入れてきました。ただ、両親(私にとっては祖父母)が亡くなったときだけはさすがに連絡したようです。ところが伯母の返事は「勝手にすれば」。事ここに至って、ついに母たちは、自分たちが姉をひとり失ったのだと判断せざるを得ませんでした(この話には後日談があり、伯母は近所じゅうに「親が死んだのに報せももらえなかった」と泣いて歩いたそうです)。
身内の恥ですが、面白いのでつい書いてしまいました。私は、伯母に対しても、伯母に疑いを抱かない子供たち(つまり従兄弟たち)に対しても、シンプルに「馬鹿だなあ」という以上の感慨をもてませんでした。呆れるし、情けないし、確かにあんまり付き合わないほうが身のためだと思いました。だけどその心情の底に、憎しみのようなものは湧かず、いやむしろ何か、諧謔に満ちた愛情のようなものを感じていました。それは、私は母や叔父や叔母たちと違って伯母の「狂言」の被害を直接受けていないという理由もありますし、伯母たちが、本当に、「悪人ではなく途方もなく頭が悪いだけなのだ」と信じたいからなのかもしれません。
従兄弟が亡くなったという話も、実は母の妹が「風の便りで」聞いてきたものでした。伯母から直接連絡があったわけではありません。そんなふうに、物理的にも心理的にも離れている時間が長かったせいなのか、私が人並みはずれて冷血人間のためか、たぶん両方だと思いますが、とくに涙は出ないのです。さすがに知って数日は、呆然とする時間もありましたが、眠れないということもないし食事が喉を通らないということもありません。従兄弟とはいえ血のつながりのある人間が壮絶な死に方をしたのに、この始末である自分がなんだか不思議な気がします。
絶縁状態になる少し前、従兄弟が、クルマの免許を取るために私の実家にいた頃のことです(うちの実家が地元の教習所の社長と仲良しだったのでそういうことになったのですが、まあこれも結局伯母に色々誤解されて絶縁の一因になったのでした)。
その頃飼っていたチビ(巨大なオスの雑種犬)の具合が悪くなり、動物病院に行ったところ、「フィラリアで余命1ヶ月」と診断されました。私は、その宣告と同じくらい、私と一緒に診察台でチビを押さえていた従兄弟が、辺りも憚らず大粒の涙を流し始めたことに狼狽してしまいました。ハタチをゆうに過ぎた図体のでかい男が、嗚咽も漏らすことなく、まるで声を失った人魚姫のように、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしているのです。
事故の瞬間、従兄弟は、先に落ちたもう一人を助けようとして一緒に落ちたのだ、と関係者から聞きました。
真珠の涙を思い出しました。
2011年05月24日
(ちゃんとした)大人の女のひとが怖い、という病気
実は、J子の告別式には出なかった。
そのことが、ずっと、心のしこりになってしまっている。
通夜に行って、そこで旧友たちと会い、嫌になってしまった。彼女たちの悲嘆に暮れる様子が、あまりにそれらしくて。
いや、これは嫌味ではないのだ。私にそんな資格はない。純粋な賞賛あるいは羨望だ。
いったいいつのまに、彼女たちと私はこんなにも差がついてしまったのだろう。いや、すでに中学の頃にはついていたのだろう。それゆえの疎外感だった。高校時代、若くして亡くなった学友の葬式でも「なんで怒ってるの」と言われた私だ。どうも、私が悲しい顔をすると怒っているようにしか見えないようなのだった。
極めつけは、J子のお母さんだった。通夜の儀が終わると、一緒にいたB子が親族席を指して、
「あれ、お母さんだよね」
と言った。私は人の顔、とくに友人の親の顔を直視することができない人間だったので、よくわからなかった。私が返事をするまでもなく、B子はお母さんに駆け寄り、手を取り合って、泣いた。
旧友たちが三々五々、二人の周りに輪を作り出したので、私もなんとなく近寄っていった。B子とお母さんがまるで親友のように寄り添い、J子の思い出を話すのを聞いて羨ましく思っていると、お母さんが突然
「小学校の頃は…M(私の本名だ)ちゃんと本当に仲がよくて…遠くに行ったらしいけど、いま、どうしてるのかねえ…」
と“ご指名”になったので、私はどぎまぎした。絶対目が泳いでいたと思う。みんなの目が一斉に私に注がれ、私は力なく、
「あのー、それは、私です…」
と呟いた。どうしてこんなときまで、私はかっこ悪いのだろう。
お母さんは、驚き、また、たぶん私の見分けがつかなかったことに狼狽して、
「ああ。ああ、来てくれたのね」
と、力なく笑った。私も、なんとなく、愛想笑いをした。それ以上の親密さを示すことは、できなかった。
J子のお母さんに限らず、私は、ありとあらゆる「友人のお母さん」に嫌われてきた。私をサベツしなかったのは、現在アメリカにいる友人Aのお母さんだけだ。いつも私が遊びに行くと喜んで、桜エビ入りのお好み焼きを焼いてくれた。その家では何にでも桜エビが入っている。静岡県人は桜エビにうるさい。しかしそのお母さんもすでに、鬼籍に入ってしまった。
今回登場した友人Bのお母さんなどは、TVに出た戸川純を指差して
「この子を見るとMちゃんを思い出すねえ。ああ気持ち悪い」
と言い放った、と友人Bがあっけらかんと私に報告したことを私は一生忘れない。先日この話をしたらBのほうでは忘れていたが。人間てそんなもんだ。少なくとも戸川純には謝ってほしいよBよ。
友人のお母さんだけではない。私は、女教師にもよく嫌われた。理由はたいてい、
「子供らしくない」。
そう言われても、子供に、何ができるだろう。
しかもそれは完全な買いかぶり(?)で、私は本当は、そんじょそこらの子供なんかよりずーっと幼稚だったのだ。だから、とても、傷ついた。それはいいのだ。誰だって傷ぐらいつく。でも、解決法がわからない。そして私は自信をなくした。私は「ちゃんとした大人の女のひと」が怖くなった。ちなみに、おっさんには友達もいたのでそんなに怖くない。おっさんのほうがずっとつくりが単純だし。
私が「ちゃんとした」企業への就職を避けたのも、あらゆるセレモニーを拒絶してきたのも、PTAが怖いのも、根はそこにあるような気がする。「ちゃんとした女のひと」たちが集まる場所で、ちゃんとしてない私がどう振舞えばいいのかわからないからだ。石を投げられそうな気がするからだ。
本当は、納棺には、立ち会いたかった。最後に、彼女に、感謝の気持ちを、伝えたかった。
だけどそれ以上に、「ちゃんとした女のひとたち」が怖かった。
子供を持つお母さんのみなさん、お願いです。お願いだから、子供のともだちを、無闇に嫌わないでください。あなたの価値観からはみ出した子供であっても、犯罪に巻き込まれない限り、友人は子供に選ばせてやってください。あなたの子供を、信じてください。そして、どうしても、あなたがその子を見るに耐えなくても、それを子供に伝えることだけはしないでください。伝えるとしても、解決法のない人格否定だけはやめて。ひいてはそれが人類の平和のためにもなりますぜ。
出棺の時間、私は葬儀場の駐車場にいた。クラクションが長く鳴って、彼女の車がやってきた。
私は、ひとりで、彼女を見送った。
J子はきっと、呆れているだろう。
でも、許してくれるだろうと思う。
そのことが、ずっと、心のしこりになってしまっている。
通夜に行って、そこで旧友たちと会い、嫌になってしまった。彼女たちの悲嘆に暮れる様子が、あまりにそれらしくて。
いや、これは嫌味ではないのだ。私にそんな資格はない。純粋な賞賛あるいは羨望だ。
いったいいつのまに、彼女たちと私はこんなにも差がついてしまったのだろう。いや、すでに中学の頃にはついていたのだろう。それゆえの疎外感だった。高校時代、若くして亡くなった学友の葬式でも「なんで怒ってるの」と言われた私だ。どうも、私が悲しい顔をすると怒っているようにしか見えないようなのだった。
極めつけは、J子のお母さんだった。通夜の儀が終わると、一緒にいたB子が親族席を指して、
「あれ、お母さんだよね」
と言った。私は人の顔、とくに友人の親の顔を直視することができない人間だったので、よくわからなかった。私が返事をするまでもなく、B子はお母さんに駆け寄り、手を取り合って、泣いた。
旧友たちが三々五々、二人の周りに輪を作り出したので、私もなんとなく近寄っていった。B子とお母さんがまるで親友のように寄り添い、J子の思い出を話すのを聞いて羨ましく思っていると、お母さんが突然
「小学校の頃は…M(私の本名だ)ちゃんと本当に仲がよくて…遠くに行ったらしいけど、いま、どうしてるのかねえ…」
と“ご指名”になったので、私はどぎまぎした。絶対目が泳いでいたと思う。みんなの目が一斉に私に注がれ、私は力なく、
「あのー、それは、私です…」
と呟いた。どうしてこんなときまで、私はかっこ悪いのだろう。
お母さんは、驚き、また、たぶん私の見分けがつかなかったことに狼狽して、
「ああ。ああ、来てくれたのね」
と、力なく笑った。私も、なんとなく、愛想笑いをした。それ以上の親密さを示すことは、できなかった。
J子のお母さんに限らず、私は、ありとあらゆる「友人のお母さん」に嫌われてきた。私をサベツしなかったのは、現在アメリカにいる友人Aのお母さんだけだ。いつも私が遊びに行くと喜んで、桜エビ入りのお好み焼きを焼いてくれた。その家では何にでも桜エビが入っている。静岡県人は桜エビにうるさい。しかしそのお母さんもすでに、鬼籍に入ってしまった。
今回登場した友人Bのお母さんなどは、TVに出た戸川純を指差して
「この子を見るとMちゃんを思い出すねえ。ああ気持ち悪い」
と言い放った、と友人Bがあっけらかんと私に報告したことを私は一生忘れない。先日この話をしたらBのほうでは忘れていたが。人間てそんなもんだ。少なくとも戸川純には謝ってほしいよBよ。
友人のお母さんだけではない。私は、女教師にもよく嫌われた。理由はたいてい、
「子供らしくない」。
そう言われても、子供に、何ができるだろう。
しかもそれは完全な買いかぶり(?)で、私は本当は、そんじょそこらの子供なんかよりずーっと幼稚だったのだ。だから、とても、傷ついた。それはいいのだ。誰だって傷ぐらいつく。でも、解決法がわからない。そして私は自信をなくした。私は「ちゃんとした大人の女のひと」が怖くなった。ちなみに、おっさんには友達もいたのでそんなに怖くない。おっさんのほうがずっとつくりが単純だし。
私が「ちゃんとした」企業への就職を避けたのも、あらゆるセレモニーを拒絶してきたのも、PTAが怖いのも、根はそこにあるような気がする。「ちゃんとした女のひと」たちが集まる場所で、ちゃんとしてない私がどう振舞えばいいのかわからないからだ。石を投げられそうな気がするからだ。
本当は、納棺には、立ち会いたかった。最後に、彼女に、感謝の気持ちを、伝えたかった。
だけどそれ以上に、「ちゃんとした女のひとたち」が怖かった。
子供を持つお母さんのみなさん、お願いです。お願いだから、子供のともだちを、無闇に嫌わないでください。あなたの価値観からはみ出した子供であっても、犯罪に巻き込まれない限り、友人は子供に選ばせてやってください。あなたの子供を、信じてください。そして、どうしても、あなたがその子を見るに耐えなくても、それを子供に伝えることだけはしないでください。伝えるとしても、解決法のない人格否定だけはやめて。ひいてはそれが人類の平和のためにもなりますぜ。
出棺の時間、私は葬儀場の駐車場にいた。クラクションが長く鳴って、彼女の車がやってきた。
私は、ひとりで、彼女を見送った。
J子はきっと、呆れているだろう。
でも、許してくれるだろうと思う。
2011年05月09日
左様なら、仕方がない
故郷の友人が亡くなった。
もう3年も患っていたらしい。
だれもそれを知らなかった。家族以外に知らせたくないという彼女の固い意志で。
唯一、病院で偶然会って知った人がいたが、その人もまた約束を堅く守った。
いつもにこにこしている「女の子」だった。
もちろん亡くなった時点では立派に48歳なのだが、並外れて若く見える愛らしい容姿と(なにしろ昨年撮ったという遺影もまったく48歳のそれではなかった)、なにより彼女のキャラクター、屈託がなく、いつも無理をせず、自然体で、むくれる顔までが愛らしかったその存在そのものが、私にとっては永遠の「女の子」なのだ。
彼女と知り合ったのは小学校3年のときだった。どうして仲良くなったかは、もう覚えていない。ただ、いつも一緒にいた。図工の課題まで共同制作だった(私の企画力不足により出来が悪かったことが今も心残りだ)。放課後もいつまでも一緒にいすぎて親に叱られた。
遊ぶのは、小学校に近い私の家が多かった。夕方、4時半の有線放送が流れて、日が暮れてきても、名残惜しくて、彼女の家の近くまで「送って」いった。彼女の家は大きな農家で、近所は田んぼや畑ばかりで夜は暗かった。途中にある大黒天の祠がいつも怖かった。
5年生のクラス替えでも一緒だった。ただ、小さな変化があった。数人のグループで遊ぶうち、彼女に私より仲のいい友人Bができた。私の敗因はガールズトークができなかったことだろうと思っている。中学でも同じ部活で、放課後練習もせず、5〜6人で私の家に集まるのが日課になっていたが、当時流行の「交換日記」を始めた彼女とBを、私はもてない男みたいにぼんやりと見守っていたのだった。
不思議なことに、他の友人となら、その真似事ぐらいはできるのに、彼女とだけは、恋愛の話ができなかった。たぶん、彼女といると私は「男」になってしまうのだと思う。私の致命的な欠陥のひとつに、対人関係において自分を相対化しすぎるということがある。彼女があんまりにも私の中で「完璧な女の子」だったために、私はもう、「女の子」を名乗れなくなってしまうのだ。
もちろん彼女はそんなことは知らない。
通夜の席で、友人の一人が、「彼女とは喧嘩したことがなかった」と言った。
私も私も、と誰もが倣った。本当なのだ。私も、彼女と争った記憶がまったくない。
女の喧嘩というものはたいてい妬み嫉みに端を発している。彼女にはそれがなかった。かといって自信満々というわけではなく、むしろ可愛らしいコンプレックスをいつも抱いていた。にもかかわらず、彼女が他人に対して少しでも意地悪な感情を見せたという記憶がないのだ。彼女はいつも寛容で、開放的で、マイペースで、公平で、自己評価が低く、自分に対してはうじうじと悩み、他人に対してはどんな罪もあっさり許してしまうところがあった。
彼女がB型だということに関係あるだろうか。中学時代に好きだったタレントが所ジョージだということと関係は(略)
中学で少しだけ心の距離ができた彼女と、高校は別々になった。それきり3年間、ほとんど会わなくなった。
不思議なことに、大学に入ってから、むしろ会うようになった。といっても年2回、盆暮れに、例の友人Bが提唱して部活の仲間4人で遊ぶようになったのだが。故郷を離れ、「帰省」という名目ができたからこそ、かもしれない。
一度離れてしまった友人と再び関係を取り戻すには、それなりのチャンスやタイミングが必要なのだと思う。
ましてや彼女との間にはどんどん共通の話題がなくなっていった。地元の短大から地元企業に就職し早々に結婚した彼女と、大学から東京に行ったきり30過ぎてもフラフラしていた私では仕方ない。
そんな彼女との「縁」が復活したのは、子供が生まれたときだ。仲間内で最大の変わり者であり結婚もしないに違いないと言われていた私のすべりこみ出産を、彼女はとても喜んでくれた。そして妊娠中からさまざまなグッズや子供服を譲ってくれた。お下がりをもらうという交流は、子供が小学校の高学年になるぐらいまで続いた。
そして、やがて子供が自分で服を選ぶような年頃になり、自然と交流は途絶えた。
と、思っていた。
今思えば、彼女の病気が最初に発症したのがその頃ではなかったのか。
病気が見つかって数ヵ月後にはいったん完治したのだ、と通夜の席で彼女の夫が言った。
ところが1年後、検査で再発が確認された。それから1年、治療を続け、つい2ヵ月前までは普通に生活できていたのだという。ところが突然骨への転移が発覚し、入院して1週間で、還らぬ人になってしまった。それこそ、葉が落ちるようにあっけなく。
最後の2日間は肺炎を起こし、とても苦しんだ、と彼は語った。胸が詰まりそうだった。彼女には苦しまなければいけない理由なんて何もないのに。私の一億倍も素晴らしい人間なのに。とても悔しい、と彼が呟いた。胸が締め付けられるようだった。彼の無念、彼女の無念、残された子供たちと親御さんの無念に。
地元の友人たちはみな、どうして病気に気がついてやれなかったろう、近くにいたのに、と悔しがった。会っておけばよかった、もっと話したり、いろんなところに行ったり、ごはんを一緒に食べたりしたかった、と言って泣いた。私は遠くにいたけど、でもやっぱり、近くにいたって、きっと何かきっかけがなければ彼女に会いに行かなかっただろうと思う。寂しいことだけど、現在進行形の話題がない友人関係を続けることは、微妙に難しい。きっと、たまに思い出しては「ま、便りのないのはよい便りだし」とか思っただろう。「いつでも会えるんだし」と。
便りなんか、永久になければよかった。
まめな彼女から今年の年賀状が来なかったのが、そもそもおかしいと思った、とみな口々に言った。しかし、実は私は受け取っていたのだ。たぶん、筆不精な私が珍しく今年は写真入りの賀状など作ったので(実際は作ったのは娘だが…)、体調の悪化をおして返事を書いてくれたのだろう。そこには、受験生の親を思いやる、経験者としての、しかし押し付けがましくなく誠実な、アドバイスと励ましの言葉が並んでいて、
、
、
彼女のことを思うと、心の奥がいつも温かくなる。どんな女友達にも、それが女友達である以上(ロック友達はなぜかそういうことがないが、実は彼女たちは男なのかもしれない)どこか「チクチクする」部分がある。これは男性にはわからない感覚かもしれない。でも、彼女のことを思うときは、本当に、私の中の、いちばんきれいな感情しか湧いてこない。これは本当に、彼女が生きているときから、そうだったのだ。
彼女が大好きだった。
人生のなかで、いちばん楽しかった小学校時代をありがとう。
縁もゆかりもない、親戚の1軒もない土地で、親を除いては、あなたがいる場所が、私の故郷だったんだよ。
新幹線から見える富士山は雲で隠れていた。
あと10年ぐらいは、ここを故郷と呼べるだろうか。
「そのあと」、私はどうするんだろうか。
そんなことを考えながら、夫と娘と猫の待つ家へ戻った。
もう3年も患っていたらしい。
だれもそれを知らなかった。家族以外に知らせたくないという彼女の固い意志で。
唯一、病院で偶然会って知った人がいたが、その人もまた約束を堅く守った。
いつもにこにこしている「女の子」だった。
もちろん亡くなった時点では立派に48歳なのだが、並外れて若く見える愛らしい容姿と(なにしろ昨年撮ったという遺影もまったく48歳のそれではなかった)、なにより彼女のキャラクター、屈託がなく、いつも無理をせず、自然体で、むくれる顔までが愛らしかったその存在そのものが、私にとっては永遠の「女の子」なのだ。
彼女と知り合ったのは小学校3年のときだった。どうして仲良くなったかは、もう覚えていない。ただ、いつも一緒にいた。図工の課題まで共同制作だった(私の企画力不足により出来が悪かったことが今も心残りだ)。放課後もいつまでも一緒にいすぎて親に叱られた。
遊ぶのは、小学校に近い私の家が多かった。夕方、4時半の有線放送が流れて、日が暮れてきても、名残惜しくて、彼女の家の近くまで「送って」いった。彼女の家は大きな農家で、近所は田んぼや畑ばかりで夜は暗かった。途中にある大黒天の祠がいつも怖かった。
5年生のクラス替えでも一緒だった。ただ、小さな変化があった。数人のグループで遊ぶうち、彼女に私より仲のいい友人Bができた。私の敗因はガールズトークができなかったことだろうと思っている。中学でも同じ部活で、放課後練習もせず、5〜6人で私の家に集まるのが日課になっていたが、当時流行の「交換日記」を始めた彼女とBを、私はもてない男みたいにぼんやりと見守っていたのだった。
不思議なことに、他の友人となら、その真似事ぐらいはできるのに、彼女とだけは、恋愛の話ができなかった。たぶん、彼女といると私は「男」になってしまうのだと思う。私の致命的な欠陥のひとつに、対人関係において自分を相対化しすぎるということがある。彼女があんまりにも私の中で「完璧な女の子」だったために、私はもう、「女の子」を名乗れなくなってしまうのだ。
もちろん彼女はそんなことは知らない。
通夜の席で、友人の一人が、「彼女とは喧嘩したことがなかった」と言った。
私も私も、と誰もが倣った。本当なのだ。私も、彼女と争った記憶がまったくない。
女の喧嘩というものはたいてい妬み嫉みに端を発している。彼女にはそれがなかった。かといって自信満々というわけではなく、むしろ可愛らしいコンプレックスをいつも抱いていた。にもかかわらず、彼女が他人に対して少しでも意地悪な感情を見せたという記憶がないのだ。彼女はいつも寛容で、開放的で、マイペースで、公平で、自己評価が低く、自分に対してはうじうじと悩み、他人に対してはどんな罪もあっさり許してしまうところがあった。
彼女がB型だということに関係あるだろうか。中学時代に好きだったタレントが所ジョージだということと関係は(略)
中学で少しだけ心の距離ができた彼女と、高校は別々になった。それきり3年間、ほとんど会わなくなった。
不思議なことに、大学に入ってから、むしろ会うようになった。といっても年2回、盆暮れに、例の友人Bが提唱して部活の仲間4人で遊ぶようになったのだが。故郷を離れ、「帰省」という名目ができたからこそ、かもしれない。
一度離れてしまった友人と再び関係を取り戻すには、それなりのチャンスやタイミングが必要なのだと思う。
ましてや彼女との間にはどんどん共通の話題がなくなっていった。地元の短大から地元企業に就職し早々に結婚した彼女と、大学から東京に行ったきり30過ぎてもフラフラしていた私では仕方ない。
そんな彼女との「縁」が復活したのは、子供が生まれたときだ。仲間内で最大の変わり者であり結婚もしないに違いないと言われていた私のすべりこみ出産を、彼女はとても喜んでくれた。そして妊娠中からさまざまなグッズや子供服を譲ってくれた。お下がりをもらうという交流は、子供が小学校の高学年になるぐらいまで続いた。
そして、やがて子供が自分で服を選ぶような年頃になり、自然と交流は途絶えた。
と、思っていた。
今思えば、彼女の病気が最初に発症したのがその頃ではなかったのか。
病気が見つかって数ヵ月後にはいったん完治したのだ、と通夜の席で彼女の夫が言った。
ところが1年後、検査で再発が確認された。それから1年、治療を続け、つい2ヵ月前までは普通に生活できていたのだという。ところが突然骨への転移が発覚し、入院して1週間で、還らぬ人になってしまった。それこそ、葉が落ちるようにあっけなく。
最後の2日間は肺炎を起こし、とても苦しんだ、と彼は語った。胸が詰まりそうだった。彼女には苦しまなければいけない理由なんて何もないのに。私の一億倍も素晴らしい人間なのに。とても悔しい、と彼が呟いた。胸が締め付けられるようだった。彼の無念、彼女の無念、残された子供たちと親御さんの無念に。
地元の友人たちはみな、どうして病気に気がついてやれなかったろう、近くにいたのに、と悔しがった。会っておけばよかった、もっと話したり、いろんなところに行ったり、ごはんを一緒に食べたりしたかった、と言って泣いた。私は遠くにいたけど、でもやっぱり、近くにいたって、きっと何かきっかけがなければ彼女に会いに行かなかっただろうと思う。寂しいことだけど、現在進行形の話題がない友人関係を続けることは、微妙に難しい。きっと、たまに思い出しては「ま、便りのないのはよい便りだし」とか思っただろう。「いつでも会えるんだし」と。
便りなんか、永久になければよかった。
まめな彼女から今年の年賀状が来なかったのが、そもそもおかしいと思った、とみな口々に言った。しかし、実は私は受け取っていたのだ。たぶん、筆不精な私が珍しく今年は写真入りの賀状など作ったので(実際は作ったのは娘だが…)、体調の悪化をおして返事を書いてくれたのだろう。そこには、受験生の親を思いやる、経験者としての、しかし押し付けがましくなく誠実な、アドバイスと励ましの言葉が並んでいて、
、
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彼女のことを思うと、心の奥がいつも温かくなる。どんな女友達にも、それが女友達である以上(ロック友達はなぜかそういうことがないが、実は彼女たちは男なのかもしれない)どこか「チクチクする」部分がある。これは男性にはわからない感覚かもしれない。でも、彼女のことを思うときは、本当に、私の中の、いちばんきれいな感情しか湧いてこない。これは本当に、彼女が生きているときから、そうだったのだ。
彼女が大好きだった。
人生のなかで、いちばん楽しかった小学校時代をありがとう。
縁もゆかりもない、親戚の1軒もない土地で、親を除いては、あなたがいる場所が、私の故郷だったんだよ。
新幹線から見える富士山は雲で隠れていた。
あと10年ぐらいは、ここを故郷と呼べるだろうか。
「そのあと」、私はどうするんだろうか。
そんなことを考えながら、夫と娘と猫の待つ家へ戻った。
2011年04月11日
弱音の効能
草野マサムネほどではないが、私も地味に参っていた。
震災の被害の大きさ。一人ひとりの物語。
見通せない原発と日本のこれから。置き去りにされたペットのこと。
深刻な被災地でもないのに相変わらず品不足のスーパー。
(↑本当に理由がわからないけど、お客もなんか殺気立ってる)
こんな時期に再発してしまった持病のしんどさ、それゆえ役立たずな自分。
さらにつきつめて考えてしまえば具合が悪くなくても
手に職のない私って世の中の何の役にも立たないのだ。という事実。
そして究極的に、こんなこと考えている自分が、
今も頑張って、耐えている被災者に対して申し訳ないという慙愧の念。
こういうことってループするばかりで生産的じゃないし、
だいいち聞かされて楽しい話じゃないし、
なによりかっこ悪いので、実は家族にも言わないできた。
だけど、なんだかそれで、さらに悪くなってるような気がしたので、もう言っちゃう。
へたれてました。毎朝起きるといろいろ考えて泣きたかったです。
私なんかより、千倍も万倍も辛い人がいるのに、泣きたかったです。
あの人たちは、泣くことが、できたんでしょうか。
嬉しいことも、あったんですけどね。
今回、買い占めなのか流通なのか工場が被災したのか
とにかく千葉のスーパーでは手に入らないものがいろいろあったんですが
(記録として残しておこう。震災後1ヵ月の状態。
未だにないもの=納豆、ヨーグルト、水、電池、ランプ類
入荷しだしたけど品薄=牛乳(成分無調整のもの)、インスタント及びレトルト食品、ローソク
うちの個人的な嗜好品でなぜかずっと品切れ=ホッピー(白)、オロナミンC(笑)
完全復活=主食関係(米、麺類、パン))
そういうものを、なぜかあちこちから頂けたんです。
キツネさんのアルバカレー(激ウマ)は震災直前ですが、すごく助かった。
夫と私の実家からも、頼んでないのに米と水が届きました。親ってすごい。
シメさんから突然寒干しラーメン(激ウマ)が届いたときは泣きそうになりましたよ。
千葉でこんなに感激するんだから、エガちゃんは、神様に見えただろうな…。

人を救うのは人なんだと思いました。
そう思ったので、こんな甘えた文章を書かせていただきました。
甘えられることに感謝します。
もうすぐ、1ヵ月目の2時46分が来ます。
震災の被害の大きさ。一人ひとりの物語。
見通せない原発と日本のこれから。置き去りにされたペットのこと。
深刻な被災地でもないのに相変わらず品不足のスーパー。
(↑本当に理由がわからないけど、お客もなんか殺気立ってる)
こんな時期に再発してしまった持病のしんどさ、それゆえ役立たずな自分。
さらにつきつめて考えてしまえば具合が悪くなくても
手に職のない私って世の中の何の役にも立たないのだ。という事実。
そして究極的に、こんなこと考えている自分が、
今も頑張って、耐えている被災者に対して申し訳ないという慙愧の念。
こういうことってループするばかりで生産的じゃないし、
だいいち聞かされて楽しい話じゃないし、
なによりかっこ悪いので、実は家族にも言わないできた。
だけど、なんだかそれで、さらに悪くなってるような気がしたので、もう言っちゃう。
へたれてました。毎朝起きるといろいろ考えて泣きたかったです。
私なんかより、千倍も万倍も辛い人がいるのに、泣きたかったです。
あの人たちは、泣くことが、できたんでしょうか。
嬉しいことも、あったんですけどね。
今回、買い占めなのか流通なのか工場が被災したのか
とにかく千葉のスーパーでは手に入らないものがいろいろあったんですが
(記録として残しておこう。震災後1ヵ月の状態。
未だにないもの=納豆、ヨーグルト、水、電池、ランプ類
入荷しだしたけど品薄=牛乳(成分無調整のもの)、インスタント及びレトルト食品、ローソク
うちの個人的な嗜好品でなぜかずっと品切れ=ホッピー(白)、オロナミンC(笑)
完全復活=主食関係(米、麺類、パン))
そういうものを、なぜかあちこちから頂けたんです。
キツネさんのアルバカレー(激ウマ)は震災直前ですが、すごく助かった。
夫と私の実家からも、頼んでないのに米と水が届きました。親ってすごい。
シメさんから突然寒干しラーメン(激ウマ)が届いたときは泣きそうになりましたよ。
千葉でこんなに感激するんだから、エガちゃんは、神様に見えただろうな…。
人を救うのは人なんだと思いました。
そう思ったので、こんな甘えた文章を書かせていただきました。
甘えられることに感謝します。
もうすぐ、1ヵ月目の2時46分が来ます。
2011年04月04日
ペットをめぐる妄言
この記事を読んで、朝から数時間煩悶している。
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-1411.html
原発から9kmの街に「自主的に」残っている若者?のことはどうでもいいのだが、記事中、彼が投稿したとされる、街に取り残された犬たちの写真に目が釘付けになった。
この視線。怯えるような、媚びるような、何かを諦めているような。
犬は、いつだって飼い主を待っている。だけど、ときどき不安になる。そういうとき、ほかの「人間」に会うと、つい心を許しそうになる。警戒しながらも、人間の懐かしい香りにすがりたくなってしまうのだ。そういう「野良になりたて」を、何匹も見てきた。彼らのうちほんの数%は、運よく立派な野犬になれるかもしれない。
残していった人々にしても、「一時的な避難だ。すぐに帰れる」と思ったのだろう。話が違うとなって、引き取りに帰った人もいるかもしれない。こうして鎖につながれずに行動しているということは、そうするよう指導があったのかもしれない。
だけど、つながれたままの犬、閉じ込められたままの猫だっているだろう。
人間だって大変なこんなときに何を考えているのだ、と思う人もたくさんいるだろう。いや、それが普通だ。私だって、もし被災したり、家族を失ったりしたときに、「ペットはどうするの」なんて関係ないやつに訊かれたら、腹が立つなんてもんじゃないだろうと思う。
だけど、今現在、何をどうしても胸が痛むのだ。どうしても、この犬の目を忘れることができないのだ。
「残っている若者のことはどうでもいい」と書いた。それは、彼の命がどうでもいいということではない。ただ、彼には情報があり、自分の運命を自分で選ぶ権利があった。
だけど、ペットは、この新しい状況について何も知らされていない。自分の運命を自分で選ぶことができない。生まれたそのときから、生きる場所も、生きる方法も、人間によって管理されてきた。
そして突然放り出された。
そのことに、たまらなく、胸が痛むのだ。
こんなことを書いていたら、こんな世界の片隅のブログにもそのうち乙武君の言うところの不謹慎厨がやってきて、お叱りを受けるかもしれないな。
だけど、ペットのことに関してだけは、どうしても、自分の中で割り切れる答が出ないのだ。
困った。
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-1411.html
原発から9kmの街に「自主的に」残っている若者?のことはどうでもいいのだが、記事中、彼が投稿したとされる、街に取り残された犬たちの写真に目が釘付けになった。
この視線。怯えるような、媚びるような、何かを諦めているような。
犬は、いつだって飼い主を待っている。だけど、ときどき不安になる。そういうとき、ほかの「人間」に会うと、つい心を許しそうになる。警戒しながらも、人間の懐かしい香りにすがりたくなってしまうのだ。そういう「野良になりたて」を、何匹も見てきた。彼らのうちほんの数%は、運よく立派な野犬になれるかもしれない。
残していった人々にしても、「一時的な避難だ。すぐに帰れる」と思ったのだろう。話が違うとなって、引き取りに帰った人もいるかもしれない。こうして鎖につながれずに行動しているということは、そうするよう指導があったのかもしれない。
だけど、つながれたままの犬、閉じ込められたままの猫だっているだろう。
人間だって大変なこんなときに何を考えているのだ、と思う人もたくさんいるだろう。いや、それが普通だ。私だって、もし被災したり、家族を失ったりしたときに、「ペットはどうするの」なんて関係ないやつに訊かれたら、腹が立つなんてもんじゃないだろうと思う。
だけど、今現在、何をどうしても胸が痛むのだ。どうしても、この犬の目を忘れることができないのだ。
「残っている若者のことはどうでもいい」と書いた。それは、彼の命がどうでもいいということではない。ただ、彼には情報があり、自分の運命を自分で選ぶ権利があった。
だけど、ペットは、この新しい状況について何も知らされていない。自分の運命を自分で選ぶことができない。生まれたそのときから、生きる場所も、生きる方法も、人間によって管理されてきた。
そして突然放り出された。
そのことに、たまらなく、胸が痛むのだ。
こんなことを書いていたら、こんな世界の片隅のブログにもそのうち乙武君の言うところの不謹慎厨がやってきて、お叱りを受けるかもしれないな。
だけど、ペットのことに関してだけは、どうしても、自分の中で割り切れる答が出ないのだ。
困った。


